「かっこいいとは、こういうことさ」糸井重里さんのキャッチコピー
ジブリ作品で一番好きな映画だ。
ともかくもう憧れる大人って誰って言われると本当に困る。推しはいても、格好の良い人って思いつかない。
インフルエンサー全盛の時代に、人はタイムパフォーマンスを学び、マネーリテラシーを学び、体によいものと、体に悪いものを知り、トッププレイヤーのモチベーションを吸収し、恋愛におけるスキルを知っただけで満足し、アンガーマネジメントでブッタをリスペクトして、トレンドを少しさわってハックしたつもりになり、将来のためにやらなければいけないリストを積み上げ、今期アニメを切る批評家顔して、ラーメン画像をTwitterに投稿する。
こんな大人になりたかったのかな症候群は、日々の中で霧散されていく
年長者が語る、あの頃は良かった話ほど聞きたくないものはないし、説教くさい話ならなおさらだ。
そして本書はそのど真ん中にいる小説だ。
ストーリーテラーとして登場するのは村田松蔵という明治・大正・昭和を生きた盗賊家業をしていた老人だ。ステレオタイプな江戸っ子で、「宵越しの金は持たない」「竹を割ったような性格」「五月の鯉の吹き流し」という3種を美徳と考えるような時代錯誤感。留置場にいるハンチクなやつらに、昔語りで本当の悪党とはこうでぇと説教する、モラハラ直球の内容になっている。
そしてどうしてなのか、そんな話が堪らなく好きなのだ。
なんでだろ?
江戸っ子って美化しないで表現すると、喧嘩っ早いし、見栄っ張りで、意地っ張りで、頑固で、地方出身者を田舎者と蔑むほど排他的だ。つまり現代人のライフハックとは真逆の存在だ。
じゃあこの作品のどこに惹かれているかというと、粋でいなせなんだ。
粋でいなせってなんだ?って問われても、ここに全部書いてあるから読んでくれとしか言えない。
あの人はは他人に情をかけても、けっして恩はきせない。人を好いても、好かれようとしない。義というものを知っている。あれは、男の中の男だ。
ねえ、すっごい浪花節的でしょ。明治、御一新により価値観が崩壊し、大正に世界恐慌が起きて、昭和に入り戦争の足音が聞こえるようになる。今よりも生き辛い時代に、どうやって突っ張って生きてきたのか、そこにある色気。てか色気しかねぇ
そして現代は情報に溺れる時代だ。情弱であることは罪であり、一億総レヴューに人情はなく、斟酌なく星の数をつける。朝起きたらスマホを見てトイレに行くか、スマホをもってトイレに行くかの二択しか存在しない。情報で繋がり、それが有益であるかは問題ではない。人の意見が自分の意見のように感じられて、よく知りもしない話題に憤ったりすることが出来る。いいねの数、再生数は価値観であり、通知は我々の支配者だ。おすすめはネットに繋がっていない時間を侵略していき、そしてベッドルームにスマホをもちこみ意識が途切れるまで生きた情報の更新をあさる。果たして我々は選択値が増えたことを喜ぶべきなのか、選択させられていることを喜ぶべきなのか、そもそも自身がアップデートされているのだろうか
天切り松 闇語りは主人公、村田松蔵の回顧録というスタイルだ。ただしそれは自分の武勇伝ではない。彼は幼き頃、親に捨てられ世を拗ねた少年から物語は始まる。捨てられた先は、仕立て屋銀次という大頭目の、跡目と名高い目細の安という盗賊家業の家だ。そこでさまざまな役者が出てきて松蔵に説教する。時に殴られ、時に抱きしめられ、そこに映るのは常に足りない彼自身の必死にもがく姿だ。そして彼を説教をする格好の良い男と格好の良い女に心底惚れていく。
男てえのは、理屈じゃねえ。おぎゃあと生まれてからくたばるまで、俺ァ男だ、俺ァ男だと、てめえに言いきかせて生きるもんだ。よしんばお題目にせえ、それができれァ、理屈は何もいらねえ。
時代にのまれ、しかし向き合いながら役者達は、自身の原理、原則を曲げず、そして誇ることなく、突っ張っていく。作中に出てくる好きな言葉に「あれは心意気の化け物だ」というのがある。私が将来的に目指したい自身の姿は、心意気の化け物であると常に題目として唱えたい。
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