めちゃくちゃロマンあって、ひさしぶりに心から楽しめたーーー!!
このブログはアウトプット用にしようと考えていたんだけど、読むモチベーションってやっぱ大事!!って心から思ったよね
だって開幕からレオナル・ド・ダヴィンチからの登場ですよ、展開の繋がり、糸口が掴めないなか、おやじが妊娠した村の母を捨てたクソだったって書いててまず草生える
本書全編を通じて、舞台・歴史の語り部としてアートがあるというのが前提としてあって、今回のセグメントだとルネッサンス期に花開いた文化は、経済と密接に繋がっているよーってのがよくわかる。
当時、中国やインドとの東方貿易で絶好の立地で展開できたヴェネツィア商人達。羨望を通り越して、ほうぼうで殺意を持たれていた。そのため各地にいたバンコ(両替商)が為替(かわせ)手形を提供することで、商人達はキャッシュレスで取引出来るようになる。ちなみにバンコは銀行(bank)の語源になっているとのこと、ほえ〜って声でるよね。
バンコは顧客から手数料をもらうことで、ビックビジネスに繋げていくんだけど、ただそこに立ちはだかるキリスト教の存在。教義で利息はいやしいものだと禁止している。そこでバンコ達はポクポクポク考えた「それを他に使えば得られたであろう儲け」という建前(どういう言い訳?)をもってインテレッセ(利息)を得たのだ。※そしてこれが利息(interest)の語源
バンコから資金繰りが出来るようになって、商人達は仕入れ・販売に併せて為替手形の取引記録、バンコ達は融資や回収、為替手形の発行決済などの記録を管理する必要が出てきた。そのため中世イタリアで帳簿をつける簿記という文化が誕生する。ふへえ〜
商人たちの自己資金が「資本」バンコ達からの借入金を「負債」この二つが資金調達で、それをもって商人は香辛料や船などの「資産」を買って運用する。これがバランスシート(貸借対照表)の基本の型になる。
商売で左側の運用がうまくいけば資産が増える。バランスシート右下の段差部分を置いて左右を一致させることで、利益剰余金になる。バランスシートは右の調達から左の運用を、左右のバランスをで読むということが出来る。(プスプスプス働け私の脳)
同時期に起きていた出来事として、製紙技術の向上が挙げられる。イタリアでは綿衣料が盛んになっていたこともあり、その原材料を使用した紙の生産量が増えてきてた。レオナル・ド・ダヴィンチがメモ魔になれたのも、商人やバンコが帳簿をつけることができたのも、そういった時代背景がある。
ここにスーパーなバンコの存在がある。フィレンツェのコジモ・ディ・メディチ。メディチ家はバンコ事業をはじめ、メディチ銀行を開業。メディチ家は後発だったものの、大きいところのパイセン達は英国王の借金踏み倒しにあって破綻(この頃の王家はいつ裏切るかわからない存在らしいウケる)そのため、コジモはローマ法王と強いパイプを結ぶことで箔をつけ、収益をあげていくことに成功。一躍トップバンコに躍り出る。メディチ家はヨーロッパ各地に支店を構えることで、商人達のメリットの高いバンコになった。
そんなメディチ家の問題は拡大する支店管理にあった。それを達成させるためには経営権限の委譲が必要で、支店に対して分権化するために支店の支配人との共同出資で立ち上げ、本部は支店新設の判断に集中させるようになった。また支店での儲けが出た場合出資比率を上回る利益配分を与えることで、各支店長のやる気を引き出していった。そうして、ここに強大なメディチホールディングス(持株会社)が出来上がってくるわけ(関暁夫風に言いたくなるよね)
ローマ教皇とのパイプ、組織体制の構築、国内外の拠点ネットワークで、他を圧倒する力を手に入れたメディチ家。稼いだカネに若き才能に投資したことでルネッサンスが開花していく、レオナル・ド・ダヴィンチという天才はメディチ家や時代背景とセットだったということがよくわかってくるよね
さて、商人達は家族や親族からのファミリー構成から、継続的な仲間で組織(コンパーニャ)を形成していくようになってきた。この言葉が転じてカンパニー(会社)という語源になっていく。「com=一緒に、pan=パンを食べる」会社の語源となった言葉は、一緒にパンを食べる仲間という意味。ただ、パートナーシップといっても他人なので裏切りも多かった、そのため、公証人(レオナル・ド・ダヴィンチのクソおやじの仕事がそうだった)という第三者を立てることで、記録の正当性を頼っていたんだけど、でもそんなんばっかだからコストがかかりすぎる。そのためルカ・パチョーリ(レオナル・ド・ダヴィンチの先生。どんだけ出てくるだよw)が書いたスンマという本が、正しい帳簿の付け方指南として商人達に支持されるようになってくる。
商人達が自ら簿記を学んでいった。正しい帳簿をつけるメリットは、対外的なトラブルが起きた際の証拠になる側面、公証人という第三者に頼らなくてもよくなった。もう一つは儲けを明らかにし、出資比率に基づいた分配ができるようになることで、トラブルを減らすことに繋がっていった。
ルカ先生の教えに従い取引を記録していけば、帳簿を一年間集計することで、一年間の儲けが計算できるようになり、これが期間のプラス・マイナスを表すフロー情報になった。また決算日に棚卸しを行えば、決算時点の財産の内容を把握することができる。これがストック情報となった。フロー(損益計算書)とストック(バランスシート)の原型は中世イタリアに存在していたということになる。
時系列は前後するんだけども、ルカ先生のスンマが発行される時期にメディチ銀行は破産する。コジモから3代目のロレンツォは、コジモの時代に英国王(エドワード3世)の借金踏み倒しがあってコジモのパイセン達がことごとく破綻していたにも関わらず、英国王(エドワード4世)に貸付を行い当然のように踏み倒される。(英国王やばいw)
スンマを書いたルカ先生もレオナル・ド・ダヴィンチも、仲間内から足を引っ張られ、告発された。メディチ家を築いたコジモは目立たないように努めていた。「嫉妬とは雑草のようなものだ、決して水を与えてはいけない」とはコジモの言葉。どこの世界にも新しいチャレンジを妬み、邪魔をする人達が一定数存在しており、組織の中で凋落していることを認めず、地位にしがみつき、そういった斜陽が重なっていくことでイタリアの栄光は終わりへの進んでいきましたとさ
やー、メディチ家なんてルネッサンスのパトロンっていう逆側からのイメージしかなかったんだけど、めちゃくちゃ人類史において大きな役割担ってたんだーって感心するよね。ミケランジェロもラファエロもその系譜だし、でも栄華ってめちゃくちゃ短かったんだ…あとこの時期の英国王やべぇ
そしてイタリアの斜陽とともに台頭してきたのがオランダだ。歴史の区分でいえば「中世」が終わり、「近世」がやってくる境目になってくる。
大きな転換となったのはローマ数字からアラビア数字への移行、インドで発明されたゼロの概念を含むアラビア数字を使ってみてヨーロッパは気づいた。「ふぉおおおおお!!!めっちゃ快適w」
ローマ数字はゼロや位上がりの概念がなく、数字を書くだけで面倒だった。それがアラビア数字に置き換えることで物事を数字で考えることが出来るようになったため、人類は「はっ!」と思った「…これは科学が始まっちまったな」
ルカ先生のスンマが受け入れられた背景として、教養はラテン語の文化圏の中で、イタリア語で書かれていたのも支持された理由。江戸弁や大阪弁のような市政の言葉で書かれているからこそ、オラオラの商人達にウケたのだ
このスンマが世に出た頃、数量革命を背景に歴史を大きく変えてしまったのがインド航路の発見だ。バスコ・ダ・ガマのインドへの新航路はヴェネツィアを経由しなくなったのも、イタリアが地中海から消えた要因になっていった。
そして次なる主役はオランダだ。16世紀のオランダはカトリック色の強いスペインの統治下にあったんだけど、弾圧を受け続けたプロテスタント達の手によって独立を果たす。混乱のうちに没落していったイタリアに代わり、ヨーロッパの経済大国になった経緯に触れてみよう。
オランダが急成長出来たのは、ユダヤ人、カトリック、プロテスタントと全てを受け入れる寛容さで商売というワードで繋がった国だったから、また海運業者として仕入れ・販売・輸送を全て行うジェフベゾスが作ったアマゾンのような存在でもあった。アムステルダムにはヨーロッパ中から多くの商人が集まり、商業的、政治的な情報を落としてくれる場所となる。そうしてマーケットが立ち、市場ができることでより多くの人が集まってきた。「人→情報→市場→人」という循環がオランダ経済を組み立てる要因になった。
この時代のオランダを代表する画家レンブラント。それまで絵画は教会や君主からの注文財だったのが、オランダでは市民が買い手になっていき美術品の商業化「市場取引財」としての正確が強くなってくる
そうなると画家にもマーケティングが必要になってきて、顧客が望むような絵が描けないとならない。芸術度としてはレンブラントは高い評価だったものの、ビジネスマインドには対応出来ず、浪費癖も手伝い徐々に金銭的に困窮、人生の終盤には裁判所から破産宣告を受けている。
絵画とは別に同時期の歴史に残る市場取引財、それがチューリップだ。オランダでは元々人気の高かったチューリップ。新しく開発された珍しい色の花を咲かせる球根に、爆発的な人気に火がつき、世界初となるチューリップバブルが発生する。
新しいチューリップの球根は、マーケットの取引財となり、投機家たちの熱狂的な投資対象となった。そのため市場の価格調整メカニズムにより価格が上昇、チューリップの収穫前に球根を買い取る先物取引も誕生した。しかし政府の介入もあり、バブルは短期間で弾け、多くの商人が損害を被った。日本の不動産、アメリカのサブプライムローン。近年の仮想通貨等、新しい概念が登場したときにバブルは発生する。
もう一つオランダで盛り上がった市場取引財があった。それは株式。
オランダで設立された東インド会社。これが世界初の株式会社となる。この会社の株主は所有する株式を取引所で売却することができた。そのアムステルダムの取引所が世界初の証券取引所となる。
オランダは海洋国家で、先行して東方進出しているカトリック系のスペイン、ポルトガルと、ライバルとなるイギリスにも勝たねばならなかった。海上で出会えば沈められる世界観。今までのように小さな会社が船を出して沈むようなことを繰り返しては無駄が多するということで、もっと強力な大砲を備えた大船団を組む必要があった。また船を往復されるだけではなく、現地拠点をつくり長期的な視野で大きく商売を展開しようと考えた。それを実現させるには大きな資金を調達する必要があり、そのために用意されたのが、7つの会社を合併させた東インド会社(以降VOCと呼びます)である。
船の商売から、陸の商売になるにつれ、組織は当座企業から、継続企業へと変化していった。巨額の資金を長期的に調達するためには親族、友人だけでは不可能で、見知らぬ人、ストレンジャー(見知らぬ人々)株主が登場する。出資者にストレンジャー株主が入ってくると経営の仕組みが大きく変わってくる。所有と経営が分離されて、事業の儲けをきちんと計算させること。儲けの相当分を出資比率に応じて分配されることが求められるようになった。オランダはイタリアから輸入したスンマから、簿記を学んでいたのだ。
遠洋航海のVOCはハイリスク・ハイリターン。無事に帰ってくる保証もないので、沈没されれば大きな損害となり、株主に負担が及ぶのであれば、株を買う人はいない。このような無限責任では事業出資を募ることが難しいと考え、有限責任制度を用意した。もし損失が出た場合であっても株主に出資金以上の負担を求めないのが有限責任。リターン青天井、リスクは限定なのでVOC株は人気を呼んだ。所有と経営の分離をすることで、株式会社のルーツとなった。
もう一つVOC株人気になった要因として、転売するマーケットがあったことが挙げられる。株主には自身の所有する株式を、他の株主に売却出来る市場があった。これにより株主は会社の儲けを分配してもらう配当(インカムゲイン)と、株を売って儲ける(キャピタルゲイン)という選択ができるようになった。長期保有して配当をもらうか、手放して売却代金を手にするか投資が出来る環境を用意したことで、巨額の資金を長期的に調達することが出来るようになったのだ。それは馴染みのある株式会社+証券取引所の成立だった。
そんなオランダの黄金期は短く、VOCの凋落(巨額の負債を抱えた)とともに破綻する。英蘭戦争が要因であると言われているが、VOCにも問題があった。船員達は積荷を不正に盗難しており、チェック機能(カバナンス)の仕組みが出来ていなかった。イギリスの東インド会社との競合で主力商品の香辛料の価格が下がり、儲けが減っている中、決算を行なって配当。その配当は必ずしも適正な金額ではなく、内部留保は不足した。どの商品がどれだけ儲かっているかわからない状況で、売れ筋シフトの見逃しており、また監査もまったく行われていなかった。そんなVOCの失敗はその後の会計制度の発展に深く関わっていく。
⚪︎ずさんな会計計算・報告→財務会計制度の改善と管理会計機能の充実。
⚪︎高すぎた株主への配当→コーポレートファイナンス理論の構築
⚪︎不正や盗難に対するチェック機能の甘さ→コーポレートガバナンスの整備
VOCの利益は長期にわたって低下してきたが、得意商品であった香辛料、茶、砂糖の価格下落が大きく占めていた。価格が下がる商品は量で勝負するしかなく、輸送や保管コストの増加に繋がり、商品ごとのトータルに損益を計算するセグメント会計の仕組みは存在しなかったのだ。利益率が下がる香辛料に固執する一方で、人気の出始めた絹織物、綿織物へのシフトを見失っていたのだ。
まだ3章のうち、1章なんだぜ?信じられるかい?
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